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映画界の厳しさ

こんなこと習っていなかったよ。
教えてもらえなかったこと知ると少し得した気分ですね。

1949年10月1日設立の東京映画配給(とうきょうえいがはいきゅう)が1951年、太泉映画(おおいずみえいが)(東京・大泉の旧新興キネマ東京撮影所を買収して貸スタジオを経営。やがて映画製作に進出した。)と1938年設立の東横映画(とうよこえいが)(東急東横線の沿線開発を目的に、東京の渋谷や横浜で映画館を経営していたが、戦後大映より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出。)を吸収合併、社名を東映と改めて出発した。 東横映画を吸収したことからも判る様に設立には東京急行電鉄が関わっている。小林一三が東宝を作ったように、五島慶太は東映を作った。東横映画には、マキノ光雄と根岸寛一を中心に、大陸から引き上げた満州映画協会OBが製作スタッフとして参加しており、そのまま東映に移行した彼らは「第四系統」(松竹、東宝、大映に継ぐ後発映画会社の意味)として誕生した会社を担うことになる。

上記のように企業としては戦後派であるが、撮影所は東西ともに帝キネ→新興→大映第二(東横)を引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する路線なども似ている。

1957年には東京・大泉撮影所の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に東映動画(とうえいどうが、現東映アニメーション)と改めた旧日動映画(旧日本動画映画)を移転させた。1950年代には片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵らを擁して時代劇ブームを巻き起こした(東映時代劇)。一方、東映現代劇からは1950年代半ばから1960年代前半にかけ江原真二郎、中原ひとみ、高倉健、佐久間良子、梅宮辰夫、三田佳子、千葉真一、大原麗子らがデビューしている。観客動員No.1となった東映は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなり、コストダウンのため1963?64年にかけて、京都撮影所の大リストラを敢行し、東映テレビプロダクション、東映動画へ大半の従業員が配転される。また取締役俳優である片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大の専属契約が切られ(取締役の地位は留任)、右太衛門は映画から引退。演出料が非常に高い渡辺邦男、松田定次、佐々木康などの時代劇の大御所監督にも辞めてもらう。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月24日 20:04に投稿されたエントリーのページです。

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